横浜という街

こんにちは、kay(ケイ)です!
私は生まれも育ちも埼玉県で
神奈川県で暮らすのは今が(5年目)
人生で初めてなんですが、
実は私の両親は
幼少期から社会人になるまで、
ずっと横浜で暮らしておりました。
父も母も5人兄弟で
それぞれが世帯を持った後も
神奈川に住んでいるので、
国内で埼玉県に移住したのは
ウチともう1人の叔母のところだけでした。
特に私の父方の祖母は
浅草の長屋に生まれ育って
結婚式の当日に家出して宇都宮に行き、
そこで結婚して子供をもうけたという
その時代には中々の
マイペースぶりだったようです。
戦後、病で亡くなった祖父の代わりに
横浜に移って水商売をやりながら
5人の子供と妹の家族を養った
愛すべき女傑です。
その祖母は、米国の軍人向けの
高級クラブをやめてから
野毛で小さい飲み屋を
営んでおりました。
当時はヤクザに話をつけて
自己資金だけで店を出すのは
並大抵ではなかったろうと
彼女の肝に感服します。
そんな訳で、
ほとんどの親族が神奈川にいたため、
幼少期の遠出の思い出はほとんどが
神奈川県にあるのです。
当時は圏央道や
湘南新宿ラインがなかったため、
一家4人、決死の覚悟で都内の
渋滞に巻き込まれておりました。
けれど、港があって船が見れて
子供が見てもちょっとオシャレな
横浜の街は、何度行っても飽きる事なく
少しずつ思い入れを募らせていきました。
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やっと親の世代の話を
理解できるようになったのに
大好きだった叔父や叔母を
ひとり、またひとりと失って、
横浜に対する想いが薄れていたところ
先日この記者会見を見たのです。
藤木さんの語り口は
祖母のそれと本当に似ていて
ハマっこの粋を思い出しました。
戦後の苦しい時代から
港に捧げた彼の人生のお話は、
時代やしがらみに引き裂かれながらも
国や家族、自分の街に
人生を捧げた私の叔父や叔母と
重なってしまい、
久しぶりに涙が止まりませんでした。
彼は横浜の最後の希望です。
私の幼少期のノスタルジーなぞ、
彼や港の人たちには到底及びませんが
横浜に生まれ育った方たちは
街のことは自分たちで考えて
自分たちで決めたいんだと思います。
日本の各地で起こっている
怪しい騒動も同じです。
街のことはそこに暮らしている人たちが
自分たちで決めるべきだと思います。
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ですがしかし、藤木さんのような
日本人の大先輩たちのお話に
まず、耳を傾けるべきだと思うのです。
戦後教育の悪影響で
語りたがらない、聞きたがらないという
人たちもたくさん居られると思いますが
私の世代はとにかく一生懸命に聴いて
それを残していく義務があると思っています。

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