こんにちは、kayです!
突然ですが50歳の私は
最近自分が「真ん中にきた」ことを
噛み締めています。
人を年齢で括ることはできないけれど
生まれた時代によっては
育つ過程で時代の影響を
大きく受けるんであります。
私の両親は戦争を知っています。
戦地に行くほどの年ではなかったけれど
国が破れて全員が貧しかった時を
彼らは覚えています。
私の父は長男だったので
彼の母を引き取って亡くなるまで
私たち家族は一緒に暮らしましたが
祖母に昔話を聞かなかったことを
私はかなり後悔しています。
大正生まれの彼女は
浅草の長屋生まれの江戸っ子で
関東大震災があった時、
上野の松坂屋が燃えたことや
徒歩で赤羽まで逃げたことを
笑いながら話してくれました。
自分が50歳になって
父があの頃の祖母と同じ歳になったのは
なんか、感慨深い。
そして私は両親の過去の話を
あんまり知らないなあ、と
気がついたのでした。
自分の知らない彼らの時代が、
幼少期や青春(かどうかはわかんない)が
昭和の頃にはあったのです。
そんなことを考える自分になったのも
また不思議な感覚です。
100まで生きるつもりはないが、
半分くらいは来たんじゃないの?
私の知らない時代を過ごした両親たちと
新しい時代を生きる若い世代に挟まれて
なんか、ちょうど真ん中な気持ちです。
今日もおつきあいください。
昭和の初期は別の国
父は1938年生まれの84歳です。
当たり前ですけど
彼が生まれたのは戦前で
今の私が想像するのは難しい。
モノがなかっただけでなく、
食べ物自体があんまりない。
かと思えば
どうやら一般家庭にも
電気は通っていたようです。
電球や扇風機程度のものですが
一応、家庭に電気はあった。
そうするとますます想像が難しい。
しかも、戦中に食べ物がないから
パンを焼いて食べていた、と言うのです。
米がないから粉を水でといて
電熱の通ったパン焼き器に入れて
パンを焼いていたそうです。
私はパンは戦後にアメリカ主導で
大量投入されたものと思ってましたが
洗濯機の前にパン焼き器があったとは。
けれど今の今まで
幼い頃どんなだったか、
学生時代どんなだったかを
詳しく聞いてこなかったのは
自分としても少し意外です。
我が家は仲が悪いわけでは決してなく
それぞれ好きなことに没頭し
適度な距離を保ってお互いに接してきました。
とりわけ父と私は馬の合う親子だと
我ながら自負していますし
愛着のある「父と娘」の関係を
体現できていると思います。
先日、
You Tubeでなんか発信したい!
と思い立ち
「色んな人のそれぞれの時代」を
根掘り葉掘り聞いてみたくなりました。
もちろん父は最初の実験台です。(笑)
色々、聞いてみるもんだねえ
戦後の時代をまっしぐらに
生き抜いて来た父は
過去に執着がありません。
記憶もあまりないようですが
やはり、しつこく聞いていくと
ポツリ、ポツリと思い出してくれるのです。
彼はまた、小学生の時に
自分の父親を亡くしていますが、
幼い彼が生きた時代に
悲しみや苦しみはなさそうです。
それを感じる余裕がなかったのか
はたまた、それなりに色々あっても
照れで娘に全てを話せないのか。
その辺、図りかねますが、
全員が「今日を生きること」に
一生懸命だったのかな。
と言うのが私の解釈です。
父は工業高校を出て東芝へ入社しました。
エンジニアとして図面を引いていましたが、
私が生まれた頃はカラーテレビへの移行期で
カラーテレビの設計をやっていたそうです。
おかげで我が家には
私が幼稚園くらいの当時
テレビが3台あったのを覚えています。
1台は白黒の木製フレームのものでした。
今ある家電メーカーは
ほとんどが軍需産業だったとか
ラジオは最初、真空管ではなく
鉱石ラジオだったとか。
彼の父親がアメリカのフォード社の
代理店をしていたのは知っていましたが、
その会社が戦前すでにあったことは
今回初めて知りました。
なるほどねえ、聞いてみるもんだねえ。。
昭和「が」怪物
昭和の時代の大物政治家や
有名・著名人たちが「昭和の怪物」と
謳われることがありますが
「昭和」と言う時代そのものが
明治に匹敵するかそれ以上の
怪物だったに違いありません。
私の両親も含めて
彼らの世代の「氣」の強さは
やはり元々この国に
受け継がれたものなんだろうと思います。
ぼうっと20代30代をやり過ごして
やっと「真ん中」にたどり着いた私は
今、必死にそれを受け取ろうとしています。
祖母を亡くした時の後悔を
味わわないように、
私以外のたくさんの人たちが
父の時代を少し知れるように。
⬆️動画ものぞいて見てくださいね。
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