ウチのボブ

kayのブログ 私の意見!
こんにちは、kayです。

今日は私と同居人、
そして彼の皮のお話です。


私はボブと二人暮らしである。
ボブとは我が家のクモである。

彼は現在直径約4センチで
種類は全然わからない。

実はこのアパートに引っ越してきた時に
直径8センチはあろうかという
中々お目にかかれない大物が
私より先に住んでおり、

どちらかというと
私が後から間借りした感じだった。

彼は暖かくなるとどこからともなく
部屋にやってきて

あれ。と気配を感じると
まさに私の背後で
壁にひっそり佇んでいた。

キッチンのシンクにいれば
慌てて水を止めたり、

朝トイレで会えば
ドアに隙間を開けておいたり

お互いを驚かさないよう
気を使いながら、声をかけながら

3〜4年はそうして一緒に暮らしたが
去年か一昨年あたりから
姿が見えなくなってしまった。

ボブ、いなくなっちゃったな。

そうして、冬を越え
暖かくなって今年の春、
また少し大きめのクモが家にきた。

おお、きっとコイツは
生まれ変わりか子供に違いない。

という訳で、厳密に言うと
今一緒に暮らしているのは
「二代目ボブ」である。

今日もおつきあい下さい。

クモって脱皮すんの?

ようやく暑さが静まってきて、
庭にはすでにトンボが飛んでる。

朝起きて窓を開け、
庭に置いてるたった一つの鉢植えに
水をやるのが日課である。

窓を開けて縁台に出ようとしたその瞬間、
反射的に「ヒッ」と声をあげてしまった。

網戸の外側のサッシの溝に
クモのような、でも死骸のような、
何の気配もないものがうずくまっていた。

庭に落ちている枝を拾って
そーっとつついてみた。

動かない。
死んでるのか。

そっと持ち上げてみた。

な、何と。

朝日に透けて、
それが脱皮後のクモの皮だということが
やっと理解できたのだった。

クモって脱皮すんの?

あまりにスッポリと
美しく脱ぎ捨てられたその皮は

持ち上げたら軽やかに
風に吹かれていった。

へえええ。クモは脱皮すんのか。

朝からいいもの見た。と思い部屋に戻ると、
リビングの壁にはひっそりと
ひと回り大きくなったボブがいた。
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人は変わりませんから

突然だが、私の持論は
「人間は変わらない」である。


三つ子の魂じゃないけども、
基本的に根本のところは何にも変わらない。


今の自分を変えたい、変わりたい。


は、人類共通の願望であって
それが生きる目標や原動力になる人もいる。
夢を持て、というやつだ。


その考え方があるのは
十分、理解できるしそう生きれるのも
素晴らしいことだろうと思う。


でも、私は違うのだ。
夢や目標を持たなくたって別にいい。
だって楽しく暮らしてるもん。


「夢を叶えた素敵な私」を
夢見ながら生きるのは
なかなかどうして、大変なんじゃないか。


常に届かないものを追い求めて
隣の芝生を羨みながら
出来ない理由を探し続けることになりかねない。


「若さのせいで」なんて
陳腐なことは言いたくないが


20代、30代で苦しんできた理由が
50歳の今ならわかる。


今やりたいことを、
できるだけ今日のうちに。
が、私の体質には合ってるようだ。


その時やりたいことをやるのだから
「やりたいけど出来ない」なんて
言い訳をする必要もなく


「やりたいことがない」なんて
大袈裟な話でもないのだ。


目に留まった面白そうなものを
日々追いかけるだけ。


ずっと面白ければ
ずっとやればいい。


それがたまたま続いたってのが
結果的に習慣になっていくのだ。


ボブは私の新しい習慣を
変わらず静かに見守っている。


そして彼は私の核の部分が
何一つ変わらないことも知っている。
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しかし、脱げる皮がある

そうは言っても「現状打破」は
みんなの好物である。


一方で、生存本能としての
「現状維持」もまた
みんなの脳内を支配している。


私は、取り分け日本人は
「新しいモノ好き」で
「珍しいモノ好き」だと思う。


ミーハーであるとも言えるが
他国の、例えば内陸地の人たちに比べて
違ったものに順応していく能力は逞しい。


巧みなマーケティングに乗せられて
今度はコレが流行りだ!
と、追いかけるのも悪くない。


時間が経てば、それら全てが
個人の歴史となって
それぞれの考え方や価値観に
少なからず影響するからだ。


様々なものを見て、知って
また、実際に体験してみて
その後の自分の行動が変わることは
日々、けっこうあるもんである。


私の世代は日本が豊かになった、
と勘違いして一気に拝金主義に傾いた。
そしてその祭りの終焉と
インターネット時代の幕開けを目撃した。


小さい頃から叩き込まれた
「狭き幼い価値観」では
到底、切り盛りできないスピードで
何度も小さな衝撃を味わってきた。


8割以上思い込みで生きている私という人間は
「自分が心地よい」と感じる自分になるまでに
随分回り道をしたと思う。


迂回したり道草をくうことで
新しいものに出会い、刺激を受け
私の土は豊かになった。


しかし元々自分が持っている
「私」という個体はずっと変わらず
ここにいるのである。


では、様々なものから受けた影響は
一体どこへいったのか。


「人も皮は脱げるのだ。」


これが私の目下のところの答えである。
幼い頃、一年ごとに背が伸びて
去年の服が合わなくなった時のように


「私」という人が心地よさを求めて
体を締め付ける自分自身を
どんどん脱ぎ捨ててきたのである。


50年も生きてきて
クモの脱皮を知らなかったんだから、
そりゃあ脱げる皮や覆される思い込み
はたまた捨て去るべき常識は多分にある。


今の私が残念に感じるのは
すでに小さく乾き始めた自分の皮に
温かさを感じてしがみついていくことだ。


生きづらい、とため息をつく理由は
世の中のせいも勿論あるだろうが


知らぬ間に自分の体に
合わなくなった皮を引きずって
誰かのせいにしながら日々を暗鬱に暮らすのは
どれほど苦しいことだろう。


世の中は「私」じゃない、ということ。
そしてその「私」は盟友ボブと同様に
皮を脱ぐことはできるんである。

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